シャーロックホームズの冒険

MPE事業部 名義で発行の 「《カジュアル》 シャーロックホームズ 」 の作品サンプルを載せているページです。

(サンプル)「ブルースパーティントン設計図」

1895年の11月第3週、ロンドン市内は黄色がかった深い霧に覆われていた。この週の月曜から木曜までで、ベーカー通りの部屋の窓から通りの反対側にある家々がすっきり見渡せたことは一度もなかったんじゃないかと思う。霧が出始めた初日の月曜、ホームズは1日かけて自分の分厚い参考資料帳を相互参照できるようにする作業をして過ごしていた。次の火曜と水曜は彼が最近凝っている中世の音楽についての資料を読み漁っていた。そして街が霧に覆われて4日目の木曜日の朝、僕が朝食を済ませてからイスを立ち、窓際に行って見てみると、また照かったような茶色い空気の固まりが外を覆っていて、窓枠にはポッタリとした水滴がくっついていた。ホームズはエネルギーを持て余した感じでリビングの中を動きまわっていて、爪を噛んだり、指先で家具をトントンと叩いたりしてこの停滞へのイライラを表していた。

 

「何かおもしろい記事は出てないの?」

ホームズが訊いてきた。

 

彼の言う“おもしろい記事”とは、事件、犯罪に関連しているもののことである。新聞には革命の記事や、戦争につながりそうだという話題、迫りくる政権のすげ替えに関して記事こそ載っていたものの、僕の友人の食指を動かすようなものは見あたらなかった。事件といってもごく平凡なものだったのだ。ホームズはケッという顔になって、またウロウロとしだした。

 

「ロンドンの犯罪者も鈍いヤツが多いよな、」

ろくな獲物が現れないときのハンターの感じで彼がぼやいた。

「外見てみろよ、ワトソン。人が現れてはまたぼんやり霧の中へ消えていってるだろ?こんな日なら犯罪者も密林のトラぐらい自由にうろついて獲物を狙えるのに。跳びかかる直前まで相手には気づかれないんだし、コトを済ました後もその獲物以外には自分の姿をほとんど見られないで済むっていうのに。」

 

「だからちっちゃな窃盗はだいぶ起こってるみたいだよ。」

僕が言った。

 

ホームズはまたケッという顔になって、

「こんな絶好の舞台が用意されてるんだから、もっと大きいの狙わないと。この街の人も僕が犯罪者側じゃなくてよかったと思うよ。」

 

「それはほんとそうだね。」

僕が同意した。

 

「もし僕がだよ、ブルックスとかウッドハウスとか僕の命の狙ってる50人からいる人間の1人だとしてみたらさ、狙われる方の命はどれだけ持つと思う? 嘘の呼び出し命令でもいいし、ニセの依頼で僕に接触してきてもいい。それでもうアウトだろうしね。暗殺の多い南米が霧が深い地域じゃなくてまだよかったと思うよ。あぁら.. この単調さをいちおう破ってくれそうなのが来てくれたよ。」

 

メイドが入ってきて電報を置いていった。その封筒を破って中を見ていたホームズが、急に吹き出してしまった。

「何だ、これ? 兄のマイクロフトがここに来るんだって。」

 

「そんなおかしなことか?」

 

「おかしなことかって? ど田舎の道にトラムが走ってくるみたいなもんだから。マイクロフトって自身の路線内だけで生きてる人だからね。パルモールの自宅とディオゲネス クラブ、あとはホワイトホールの官庁街。それがすべてなんだ。兄の生活はその3つをぐるぐる回るってだけだから。ここに来たのだって1回だけだよ。だからマイクロフトをその枠からはみ出させるくらいの何かが起こったってことだ。」

 

「そこには書いてないの?」

 

ホームズが電報を僕に渡してきた。

 

 

カダガン ウエストの件で会う必要がある。

すぐにそちらに行く。

マイクロフト

 

 

「カダガン ウエストって聞いたことある気がするな。」

僕が口にした。

 

「あ、そう? 僕には何にも思い当たらないけど。でもあの兄がこんな急に道を外れるんだから、惑星だって軌道から外れる日も近いよ。で.. マイクロフトが何やってる人間か知ってたっけ?」

 

僕はギリシャ語通訳の事件のときにホームズからチラっと聞いていたことを思い出して、

「何か.. 政府に関連する組織にいるとか言ってなかったっけ?」

 

ホームズはクックッと笑って、

「あぁ.. あのときは君ともそこまで親密でもなかったからね。国家のハイレベル事項ってなら、話すときも気をつけないといけなかったし。確かに政府に関連したってのは間違ってない。で、ときどき兄自身がイギリス政府となってるって言っても、そんなに間違ってもない。」

 

「おいおい.. ホームズ。」

 

「あんまり君を驚かせたくもなかったしね。マイクロフトは給与は年450ポンド足らずで、いわゆる要職に就いてるわけでもないし、勲章とか称号の類も貰ってない。でもこの国の政治にはいちばん欠かせない存在なんだ。」

 

「どういう風に?」

 

「ちょっと変わった仕事をやっててね。兄だけのために用意されたポストなんだけど。あんな仕事はそれまでなかったし、このさき受け継いでいく人もいないだろうけどね。マイクロフトって人間はすごく整備された頭脳の持ち主でね。情報を蓄える能力が誰よりも優れてるんだ。僕が犯罪捜査に活かしてるような力を、兄はその特殊な仕事に活かしてる。政府の各省が何かを決定したとするだろ? その決定は一度マイクロフトの頭を通されるんだ。つまり兄の脳みそが中央交換局とか手形交換所みたいな役割を果たしてて、そんな決定を一度総合的な見地から見る。政府にも各分野にそれぞれ専門家って呼ばれる人はいるんだけど、あれだけ広く深い知識を持ってる人間はいないからね。例えばある大臣が、海軍、インド、カナダ、金銀両本位制、こんなのがすべてが絡んだ事案を抱えて、その情報を手に入れたいとするだろ? ふつうならその大臣は各省庁の専門家に話を聞いてから考えてるってことになるんだけど、それをマイクロフトに聞いたら、すべて踏まえた上で、それぞれの要素が互いにどう影響し合ってるかまで考えて一発で意見をくれる。だから兄はそういう便利屋的な感じで始めは雇われだしたんだけど、だんだん政府に欠かせない存在になっていった。あらゆることが完璧に整備されてて、いつでも取り出せる状態になったあの頭脳にお伺いを立てることで決められたこの国の政策なんてもういくつもあるんだよ。マイクロフトはその仕事にすべてのエネルギーを注いでて、そこから頭は離すのは、僕がたまに自分が抱えた事件のことでアドバイスをもらいに行ったときにその知的パズルにちょっと付き合ってくれるときくらい。でも今日は太陽の方から地球にまわってきてくれるってことだ。カダガン ウエストって誰なんだろうな?マイクロフトにどう関係あるのか.. 」

 

「そうだっ、」

僕が声を上げて、ソファに置かれてあった新聞を漁った。

「そう、そう、これだよ。カダガン ウエストってのは、火曜の朝に地下鉄で死体で見つかった若者だよ。」

 

ホームズは口にくわえようとしてたパイプを持つ手を止め、イスの上で身を起こした。

「それって重大な事件に違いないよ、ワトソン。兄が習慣を破って来るっていうんだから普通の事件なわけない。どう関係あるんだろ。確かその事件って変わったとこってなかったんじゃないか? その青年はおそらく電車から転落したことで亡くなった。物取りに遭ったって証拠もなくて、暴行を受けたような形跡もなかった、じゃなかったっけ?」

 

「それについては検死も行われて、新たな事実もけっこう出てきたみたいだよ。変わった事件と言えるんじゃないかな。」

僕が言った。

 

ホームズはアームチェアーに座ったまま、肩を上にあげて、

「兄の行動から考えてそうじゃないとおかしいしね..  じゃ、ワトソン、そについての情報くれよ。」

 

「死体で見つかった男の名はアーサー カダガン ウエスト。27才、独身。ウーリッジ兵器工場の職員だ。」

 

「.. それって政府施設だよ。マイクロフトとつながるっ。」

 

「その男は月曜の夜に急にウーリッジからいなくなってる。最後に彼と会ってたのは婚約者であるバイオレット ウエスベリーで、その女性と月曜の夜7時半にいっしょにいるときに急に走っていって霧の中に姿を消したらしい。このとき2人の間にケンカなんかもなかったし、この男がどうしてそんな行動を取ったのか、婚約者のウエスベリーは全くわからないと証言してる。彼女がその後にウエストの消息がわかったのは、彼が死体で見つかったと知らされたときだったらしい。その死体はロンドン地下鉄アゥゲイト駅のすぐ近くの線路のところでメイソンという線路整備の人間によって発見されている。」

 

「いつ?」

 

「火曜の朝6時だ。東に向かう左側の線路から少し離れた地点に死体は転がっていたらしい。駅の近くで、トンネルを出てからすぐのところだと。死体の頭部に列車から転落した際にできたと見られる大きな傷があったらしい。こんな場所に死体があった理由は列車から落ちたということ以外に考えにくいということだ。近くの通りからその場所に運ぼうとしても駅に入っていかないといけないし、駅にはずっと駅員がいるしな。だから列車から転落したという点は間違いなさそうだよ。」

 

「確かにね。それははっきりしてそうだね。男は死んだ状態か生きてたのかわかんないけど、列車から落ちたか、落とされるかした.. で?」

 

「すぐ脇に死体が転がってたって線路だけど、そこを通るのは西から東に向かう列車で、市内だけ周るのも通るし、ウイルズデンとか他に広がる線から入ってくる列車だったって可能性もある。ウエストが月曜の夜遅くに東に向かう列車に乗っていたことは確かみたいだけど、どこから乗ってきたのかまではわかってないとのことだ。」

 

「切符見たらすぐわかるだろ?」

 

「死体のポケットから切符は見つかっていないらしい。」

 

「切符がない? ワトソン、確かにそれは変わってるな。僕の経験からして地下鉄線の駅で切符を見せないで駅構内に入っていくのは無理だよ。もしかしたらその青年は切符は持ってたけど、彼がどこで乗ったのかを隠しておきたかった犯人が盗っていったのかな.. それか本人が車内で落としたのか、これもありえるけど..  とにかく切符が見つかってないっていうのは大きいよ。その男が物取りに遭ったって可能性は低いんだよね?」

 

「そうみたいだな。死体に残されてた物のリストが載ってるんだけど、財布には2ポンド15シリング入ってたみたいだし、キャピタル&カントリーズ銀行ウーリッジ支店の小切手帳もあったと。死体の身元はそれでわかったんだって。あとはウーリッジ劇場の特等席のチケットが2枚、その月曜日の入場券だったらしい。それと工業関係の書類の束。」

 

ホームズが声を上げた。

「それだよっ、ワトソン。政府、ウーリッジ工場。工業書類、マイクロフト。つながるよ。あ、でも、もう兄が来たみたいだよ。後は本人に語ってもらうとしよう。」

 

 

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(サンプル)「サセックスのバンパイア」

直近の便で届いていた手紙にじっと目をやっていたホームズが、クックッと乾いた声を漏らした。これでじゅうぶん本人は笑っているのだ。それから手紙をこちらによこして、

「現代と過去、空想と現実の混ぜものの中じゃこれが一番だろうね..  ワトソン、何だろうね、それ?」

 

渡された紙にはこうあった。

 

 

46 オールド ジューリー

11.19

 

バンパイアに関して

 

ホームズ様

当事務所の顧客であるミンシング道の茶葉仲買業ファーガソンミュアヘッドのロバート・ファーガソン氏より、19日付けの書簡にてバンパイアに関連する調査の依頼を受けておりましたが、当方は機器類の査定を専門としているため当該の件を担当することができません。よってファーガソン氏にはそちらの事務所に問い合わせのうえご相談されては、との提案をさせていただきました。マチルダ・ブリッグスの件でのそちら様の活躍ぶりは今も我々の記憶に深く刻まれております。

それでは。

モリソン&ドッド モリソン

E.J.C.より

 

 

「マチルダ ブリッグスって若い女性の名前とかじゃないからね、」

ホームズは懐かしむような口ぶりになって、

スマトラのドブネズミの大物に関係してたんだけどね..  あれはまだ公表しない方がいいだろね。それはいいけど、バンパイアのことなんか何か知ってるか?うちってそんなのも取り扱う事務所だったっけ? ま、停滞よりはどんな依頼でもある方がマシだけど。なんかグリム童話の世界に連れて行かれてる気分になるよね。ちょっと手いっぱい伸ばしてみてよ。vのとこに何てあるか。」

 

僕は座ったまま手を斜め後ろに伸ばし、分厚い索引帳を手につかんだ。そのままそれをホームズに渡すと、彼は索引帳を太ももの上で開き、そこに記載された彼が過去に関わった事件の記録やこれまでに集めた捜査に役立つような情報の数々を感慨ぶかそうに目で追った。

 

「グロリア スコット号の航海記録..」

ホームズが口にした。

「あれはキツい仕事だったな。あれの事件簿は確か書いてたよね。あんまりいい出来とは言えなかったけど。 ..偽造犯ビクター リンチ (Victor Lynch)..  毒トカゲ (Venomous lizard) のヒィラ。 あ、これもすごかった、サーカスの華、ビットォリア (Vittoria)..  バンダーベルト (Vanderbilt) にぃ..  あの金庫破り。 毒ヘビ (Vipers) ..  ハマースミスの謎の人物 ビガー (Vigor) ..  あ、ほら、あったよ。やっぱ昔ながらの索引帳に敵うもんないね。いい? ワトソン。ハンガリーのバンパイア伝説 (Vampirism) 、あとトランシゥベニアのバンパイア (Vampires) ってのも載ってる。」

 

そう言って熱のこもった手つきでページをめくり、そこに鋭い目線を落としていたホームズだったが、すぐにケッという顔になって開いたままの索引帳を前に投げ出してしまった。

 

「くっだらない.. 心臓に杭を打ち込まないとずっと墓から這い出してくる死体だって。こんなの今の僕たちに関係と思うか? バカバカしい.. 」

 

僕が言ってみた。

「でもさ、バンパイアっていうのは別に死んだ人間のことばっかりとは限らないだろ。生きた人間のバンパイアってもあるはずだよ。もう1回若さを手にしたいから若い生き血を吸う老人の話とか、何かで読んだことあるけど。」

 

「確かにな。ここの資料にもそんなのが載ってるけど、真剣に取るようなことかなぁ。僕らが今いるのは地に足ついた事務所なんだし、これからもそうあるべきだろうしね。だいたい生きてる人間のことだけで手いっぱいなのに死んだ人間のことまで知らないよ。悪いけど、このロバート ファーガソンって人の依頼はまともに取り合えるようなもんじゃないかもね。で、これが本人からの手紙ってことかな。どういうことかわかるように書いてるといいけど。」

 

そう言って彼は1つ目の手紙に構うあいだテーブルの上でほったらかしとなっていたもう1通の手紙を手に取った。そしてニヤニヤしながらそれに目を通していたのだが、そのうち上を向いていた口角は下がり、目は真剣な眼差しに変わっていった。そして手紙を読み終えると指にその紙を挟んで持ったままでしばらく考え込んでいた。それからふいにそのモードを解いて、

「ランバリーのチーズマン家..   ワトソン、ランバリーってどこだっけ?」

 

サセックスだよ。ホーシャムの南らへん。」

 

「そんなに遠くないよな? チーズマン家ってのは何なんだろ..」

 

「あぁ、それ知ってるよ。そこの地域って、何百年か前に家を建てた一族の名前がそのまま付いてるすごい古い屋敷がいっぱいあるとこでさ。オードリー家とかハービー家、キャリトン家とかね。元々の一族はとっくにいなくなってるんだけど、その人たちの名前だけは残された屋敷でずっと生き続けてるってわけ。」

 

「..ぅなんだ。」

ホームズが小さく返事した。プライドが高く自己完結型の彼の1つの特徴と言えるが、新たな情報を目の前にしたときはそれをサッと頭にしまうが、その情報を提供した人間のことは彼にとってどうでもいいことなのだ。

「そのランバリーのチーズマン家、チーズマン邸って言った方がいいのかな。それについてはけっこう知ることになりそうだよ。これが終わるまでにはね。これ書いてきたのって予想どおりそのロバート ファーガソンって人だったんだけど。なんか君のこと知ってるとか書いてるけど。」

 

「僕を?」

 

「読んでみろよ。」

(サンプル) 「ノーウッドの工務店主」

「犯罪捜査に携わる者として言わせてもらえば、」

シャーロック ホームズが口を開いた。

「あのモリアーティ教授が死んで、ロンドンもだいぶ退屈な街になっちゃったね。」

 

「ま、同意する人間もいないだろうけどね。」

僕が返した。

 

「そうだよね。そんなこと言ったらわがままか、」

ホームズはそう言って笑い、朝食の前のイスを引いて、

「世の中的にはそっちの方がいいんだし、誰も損してないもんね。依頼が減って職を失う犯罪の専門家がいるってだけで。それにしてもあの男がいるときは新聞の記事だっていろんな読み方ができてたよ。いつもほんのちょっと見え隠れするだけだったんだけどあの邪悪な知能が関わってる事件がどれかはわかった。ほんとにちょっとしたサインだけどね。糸がちょっと揺れたらその巣の真ん中にはちゃんとヤバいクモがいるんだなって改めて思うみたいな感じで。ちゃちな窃盗とか行き当たりばったりの暴行、無意味な暴動とかの中に見る人が見たら、裏ですべての糸を引いてる存在が透けてた。高度な犯罪を研究する人間にとってはロンドンって街はヨーロッパのどこよりも貴重な研究材料を提供してたんだけどね、それも.. 今となってはね。」

ホームズは肩をすくめ、自らがその状況を作るのに大いに貢献したモリアーティ教授がいないという現状をおどけて嘆いてみせた。

 

このときはホームズが帰ってきてから数ヶ月経っていた頃で、ホームズの薦めで僕は診療所を人に売ってしまい、またベーカー通りのこの部屋で彼との同居生活を再開させていた。ケンシングトンにある僕の診療所を購入したのはバーナーという若い医者だったが、彼は僕が出してみた自分の中で売れればいい最高額にも少しの躊躇も見せずにポンと支払ってくれた。何年かしてわかったのは、このバーナーというのはホームズの遠い親類筋にあたる男で実質その予算を出していたのはホームズということだった。

 

僕らのこの数ヶ月の同居期間中にはホームズが今ぼやいたほど何もコトが起こらなかったわけではない。ムリージョ元大統領の書類のこともあったし、あのオランダの蒸気船フリースランド号のびっくりするような事件のときには僕ら2人とも命を落としててもおかしくなかったくらいだ。プライドの高く冷めたところのあるホームズは事件のことで世間からの喝采を受けることを受け付けず、彼の名前や捜査手法、解決した事件についてはいま以上の公表はしないよう最近まで止められていたのだ。

 

さっきの愚痴をこぼしたあと、ホームズは何の気なしに新聞を手にしたままイスの背にもたれて座っていた。そうしていたところに表玄関のベルが大きく響き、僕らの注意はそっちに向いた。誰かが玄関のドアをドンッドンッとグーで叩いてるような音がして、ドアが開けられてからは大急ぎで廊下を渡って階段を駆け上がってくる音が続き、部屋のドアがバッと開いてそこに必死の形相の若者が立っていた。服は乱れ、青白い顔でハァハァと肩で息をしている。僕たち2人の“え?”という顔を見まわして、礼を欠いた登場の仕方を詫びないといけないと思ったらしく、

「失礼しました、ホームズさん。でも仕方なかったんです。もう僕はちょっとおかしくなってしまいそうでして..   僕があの哀れなジョン へクター マクファーレンなんですっ。」

 

青年はそれだけを言えば自分が来た理由も今の取り乱し具合もこちらが理解してくれるだろうといった感じで自分の名を告げたが、ホームズを横目で見てもその表情には何の変化のなかったし、僕にとってもその名前は何の意味も持ってなかった。

 

ホームズがタバコ入れを青年の前に差し出し、

「マクファーレンさん、タバコをどうぞ。ちょっと興奮しておられるようだから、鎮静剤がご入り用ならここのワトソン先生がすぐ処方してくれると思いますよ。このところ暑かったですからね。あぁ、ちょっと落ち着かれたら、そこのイスに座ってもらって、もうちょっとゆっくりとあなたがどこの誰で、どんな用件でここに来られたのか教えてもらえますか?あなたのことをこちらが知ってるかのように自己紹介されましたけど、僕はあなたのことを何も知らない。独身の司法書士で、喘息持ちでフリーメイソン会員ってこと以外はね。」

 

ホームズのこの芸当はもう何度も目の当たりにしていたのでその推論の流れをたどるのもそれほど難しくなかった。この青年の服装のだらしなさや法的書類の束、その息づかいや時計にある飾りなどを見れば、だ。ただやはり相手の青年の方はかなり驚いたようで、

「あ.. はい。ぜんぶその通りです、ホームズさん。それに加えて僕は今ロンドンで1番不幸な男なんです。お願いです、助けてくださいっ!もし僕が話を終える前にやつらが来たら、僕に時間をくれるように言ってほしいんです。連れて行かれる前に本当のことをあなたに話してから行けるように。逮捕されてもあなたが僕のために動いてくれてると思えるんなら、全然違う気持ちで行けますから。」

 

「逮捕される?」

ホームズが口にした。

「それはおも..  ただごとじゃないようですね。何の容疑で逮捕されると?」

 

「下ノーウッドの、ジョナス オゥデイカーさん殺害容疑ですよ。」

 

ホームズは同情の顔を浮かべてみせたが、その中に嬉しそうなものが混じっているのを僕は見逃さなかった。

「わからないもんですね。ほんのさっき朝ごはんの時に、ここのワトソン君と新聞読んでてもセンセーショナルな事件って無くなったね、なんて言ってたとこですよ。」

 

マクファーレン青年はホームズの膝に置かれたデイリーテレグラフに手を伸ばし、震える手でそれをつかみ取って、

「これを見てもらったら、僕がここに来たわけがわかってもらえると思います。僕の名前と境遇なんてもうロンドンじゅうに知られてると思ってました。」

青年は新聞をめくっていって中のページを表に持ってきてから、

「ここです。見出しを読んでいいですか。ホームズさん、いいですか。“下ノーウッドで謎の事件 有名工務店 店主が行方不明 殺人と放火の疑い 現場に証拠品” この証拠品については警察がもう調べてるんです。で、それは確実に僕のところに結びつくんですっ。ロンドン橋駅からずっと尾行されてて..  たぶん警察は今は逮捕状が下りるのを待ってるだけだと思うんです。逮捕されたりなんかしたら母さんがどんなに悲しむか.. どんなにっ!」

青年はいてもたってもいられないといった様子で両手のひらを重ねてグッと握り、座ったまま体を前後に揺すった。

 

僕はこの凶悪事件の容疑がかけられた青年を眺めてみた。髪は薄茶色、怯えるその目の瞳は青色で、悲壮感は漂うものの元々の顔立ちは端正だ。あごや頬にヒゲはなく唇は力無くわなわなと震えている。年は27才くらいか。着ている服やその物腰から見て中流階級以上のようだ。夏用の薄いコートのポケットからさっき彼の職業が知れることになった署名入りの書類の束がはみ出している。

 

ホームズが口を開いた。

「じゃ、今ある時間を有効に使わないとね。ワトソン、悪いけどその記事読んでみてくれない?」

 

依頼人の青年が口にした迫力の見出しの後には以下の興味ぶかい記事が続いていた。

 

「昨夜遅くもしくは今日未明、下ノーウッドで重大事件発生の可能性。ジョナス・オゥデイカー氏はこの地で長らく工務店を営なむこの界隈では名の知れた人物で、シデナム道の端、シデナム側に位置するディープディーンハウスに居を構える52才の独身男性である。氏は地元ではその一風変わった人柄で知られており、人づき合いは少なく私生活を明かないタイプの性格だったようだ。工務店業でかなりの資産を築いたとされるが、ここ数年はその事業からは実質的に引退状態だったようである。ただし氏の自宅裏には小規模な資材置き場がまだ残っており、昨夜12時頃この場所が燃えているとの通報があった。消防がすぐに駆けつけたが、木が乾燥していたこともあって火の勢いを収めることはできず、結局この置き場にあった材木は全焼してしまったとのこと。ここまでであれば通常の火災事件ということだが、重大な犯罪が行われたことを示唆する事実がこの後に発覚している。現場となった自宅兼事務所に住む店主の姿が火災後から見つかっていないことに驚きの声が上がっている。氏の自宅の寝室の捜索したところ、昨夜ここのベッドが使用された形跡はなく、部屋に取り付けの金庫の扉は開いており、中に保管されていた思われる書類が部屋に散乱していたとのこと。さらにこの寝室からは流血を伴う格闘の痕跡も発見されている。部屋にわずかに血痕があったのに加え、屋敷に残されていた樫製のステッキの柄の部分にも血痕が付着していた。家の主人であるジョナス・オゥデイカー氏は昨夜遅くこの屋敷に客を迎えていたことがわかっており、血痕の付着したステッキはこの客の持ち物とされる。持ち主の名はジョン・ヘクター・マクファーレンというロンドン東中央のグラシャムビル426、グラハムアンドマクファーレン事務所に勤務する若い司法書士である。警察はすでにこの人物のオゥデイカー氏殺害の動機に関する重要な証拠を掴んでいるとされ、捜査は今後 急展開を迎える可能性がある。

原稿出稿前の最新情報によれば、未確認ではあるもののジョン・ヘクター・マクファーレンなる人物はすでに殺人容疑で逮捕されているか、少なくとも同容疑での逮捕状は発行されているとのこと。また事件に関して恐るべき新事実も判明している。哀れな工務店 店主の寝室には前述した格闘の痕跡以外に、窓が開いたままとなっており(オゥデイカー氏の寝室は1階にある)、家の庭には大きな物体が引きずられたような跡が残っていて、これが火災のあった資材置き場まで続いていたとのことである。さらに火災跡からは黒こげの遺骸なども見つかっており、警察はこの家で重大な犯罪が行われた可能性が高いと見ている。犯人は寝室において被害者を撲殺したあと、金庫を荒らして自身に関連した書類を抜き取り、死体を裏の資材置き場まで運んでそこに火を放ち、証拠の隠滅を図ったと見られる。本件の捜査には警視庁の熟練の捜査員であるリストレード警部が当たっており、その深い洞察と熱意を持って目下証拠の調べを徹底的に行っているとのことである。」

 

ホームズは瞼を閉じ、両手の指先を合わせた格好でこの奇妙な事件の詳細に耳を傾けていた。

「確かにその事件には興味ぶかいところがありますね.. 」

と独特のゆったりした感じで言ってから、

「マクファーレンさん、1つ訊いていいですか?その記事からするとあなたに逮捕状が出ているのは間違いないと思われるんですが、なぜあなたはまだここに来れてるんです?」

 

「僕はブラックヒースのトリントン荘で両親と暮らしてるんですが、昨日はオゥデイカーさんと仕事の話があってノーウッドまで行っていたんです。それで夜はその近くの宿で泊まりました。今日の朝は宿から直接 市内に向かったんですが、列車に乗るまでは事件については何も知りませんでした。列車の中で新聞を広げて、今あなた方に読んでもらった記事を見て初めて自分の立場がどれだけ危うくなってるかを知ったんです。それからはあなたに全てをお任せしようと思い急いでここに来たんです。自宅とか仕事場に寄ってたら確実に捕まってたと思います。ロンドン橋駅から尾行されてたみたいで、あれは絶対に..  え..  あ..  何だ?」

 

玄関のベルが鳴り、すぐにドスドスという階段を上がる音が聞こえてきた。部屋のドアが開き、僕らの友人であるリストレード刑事が姿を現した。後ろの廊下には1人、2人制服警官の姿も見える。

 

「ジョン ヘクター マクファーレンさんだね?」

リストレードが声をかけた。

 

僕らの哀れな依頼人は顔面蒼白となってイスから立った。

 

「下ノーウッドのジョナス オゥデイカー氏殺害容疑で逮捕する。」

 

マクファーレンは悲壮な顔で僕らを見てから、何かに押さえつけられるようにガクンと腰を落とした。

 

「ちょっとだけ、リストレード、待ってもらいたいんだ、」

ホームズが声をかけた。

「30分かそのくらいくれたら。それぐらいだったら君のほうにそんなに支障もないだろ?この人は今すごく重要なことを僕らに話そうとしてるみたいなんだ。事件の状況を明らかにするのにすごく大事なことなんだって。」

 

「事件の状況を明らかにするのは別に難しくないけどね。」

リストレードが険しい顔で返した。

 

「それでも、だ。君が許可してくれたら、ねっ? 僕はこの人の話を聞いてみたい。」

 

「.. 君にそう言われたら断るのは難しいけどね。これまでも捜査に力を貸してくれたわけだし、警視庁としての借りがあるからね。けど、この容疑者は連れて行かせてもらうよ。それとマクファーレンさん、今からしゃべることは法廷で不利な証拠として使われることもあるということは伝えておく。」

 

「それで十分です、」

マクファーレンが答えた。

「何があったのかを知っておいてもらいたいんです。」

 

リストレード刑事が時計を手に持って、

「30分だ。」

 

マクファーレン青年が話を始めた。

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(サンプル) 「マズグレイブ家の古文書」

友人シャーロック ホームズの性格で僕が変だなと思うのは彼の整理への無頓着さである。ホームズほど整理された思考を持つ人間はいないし、服装も派手でないものをスマートに着こなしているにもかかわらず、その部屋の使い様といったらルームメイトを発狂に追い込みそうなほどだ。といってもそのへんに関しては僕もかなりいい加減と言える。元々のボヘミアン体質に加えてアフガン任務でのあのむちゃくちゃを経験したのもあって、医療に従事する人間としてはゆるすぎるぐらいなのだが、それでも限界はあって、僕の同居人が石炭バケツに葉巻きを保管してたり、ペルシャスリッパの親指の部分にタバコを詰めておいたり、暖炉の上の張り出した木の真ん中にまだ返信を出してない封筒をナイフで突き刺してあったりするのを見ると、自分なんてかなりマシなんじゃないかという気になる。僕にとっては射撃なんかは屋外の開けたスペースでやる趣味という認識なのだが、ホームズにとってはそれは住宅内で行う活動のようで、その妙なテンションのときなんかに肘掛けイスに座ったまま、カートリッジに100発も付いた触発発射式のピストルで壁に弾を撃ち続け、その弾痕でビクトリア女王の「VR」なんて愛国心溢れる文字を刻んでみたりするのだ。壁がそんな風になってこのリビングが雰囲気的にも見た目的にもグレードアップしたとは僕には到底思えないが..

あと僕らの住まいと言えば化学薬品で溢れてるし、過去に扱った事件の証拠品や遺留品の類も数多くあって、そんな遺留品がどこから顔を出すかわからない状態ときている。バター皿の上にあったり、もっとあってはいけないとこにポンと置かれていたり。でもいちばん厄介なのは部屋を埋めつくす大量の書類である。ホームズの中に書類、特に過去に扱った事件の資料を処分するという発想は無いらしく、ごく稀に、1、2年に1度だけその重い腰を上げてそんな書類にラベル付けして分類をする程度なのだ。というのは、この体系的でもない回顧録でも触れたことがあったと思うが、ホームズは彼の名を上げることとなった捜査のために自分のエネルギーを一気に費やした後は、抜け殻になったようにソファーに寝そべってバイオリンをポロンポロンとやったり本のページをめくったりして1日を過ごし、ソファーとテーブルの往復ぐらいしか移動しなくなる。そんな風だから時とともに書類はどんどん溜まっていき、ついにはリビングの4隅を占領するまでになっていた。そんな書類の山は本人以外いじることもできないし、もちろん勝手に焼却処分などできない。

あの冬の日、僕らが暖炉の近くに置いたイスに腰かけていたとき、ホームズがちょうどスクラップブックに切り抜きを貼っていく作業を終えていたようなので、僕は切り出してみた。今からの2時間はうちのリビングをもうちょっと住みやすい環境にするのに使ってみたらどうだろうと。こっちの提案がもっともなことは向こうも否定できないみたいで、嫌そうな顔はしながらも彼は自分の部屋に入ったかと思うとすぐに大きなブリキの箱を引きずって出てきた。それをリビングの真ん中に移動させてから前に腰掛け台を置いて座り、箱に覆いかぶさるようにして箱の蓋を取り外した。箱の中を見ると赤いテープで縛られた書類の束で3分の1ほどが埋まっていた。

「ワトソン、この箱には十分さぁ、」

ホームズはいたずらっぽい目を僕に向けて、

「これが何なのか君が知ったら、上から詰めるんじゃなくて、下のを出してほしいって言いそうなもんばっかだよ。」

 

「じゃ、むかし関わった事件のってこと? それ見たいと思ってたんだ。」

 

「そう。ここにあるのは僕の仕事を称える伝記作家が来る前に扱ったやつ、」

彼はそう言って書類の束を1つ1つ大事そうに手に取って、

「うまくいったやつばっかりじゃないけどね。おもしろかったのもけっこうある。タールトン殺人事件とか..  ワイン業者バンベリーのケース..  あのロシアのばあさんと.. アルミの松葉杖のおかしな事件..  足首の曲がったリコレッティとあの嫌な嫁の時のやつに..  あ、またいいのが出てきた。」

 

ホームズは箱の底に腕を突っ込んで1つの木箱を取り出した。木箱は蓋がスライドして開くタイプで、子どもがおもちゃを入れておくのに持っていそうなものだ。中にはくしゃくしゃの紙切れや、昔あったタイプの真鍮の鍵、丸まった糸が巻きついた木の杭、それに数枚の錆びた金属の円盤が見えた。

木箱の中身を真剣に見つめる僕の表情に気づいたホームズがにんまりとして、

「どう思う?」

 

「おもしろい組み合わせだね。」

 

「だよね。このセットにまつわる話はもっとおもしろいけどね。」

 

「じゃ歴史があるんだね。」

 

「うん。というかこれ自体が歴史なんだけどね。」

 

「どういう意味?」

 

シャーロックホームズは木箱の中身を1つずつ取り出し、それを順にテーブルの端に並べていった。全部を取り出すとテーブルの前のイスに座り、その品々を愛でるように眺めて、

「ここのは全部、マズグレイブ家の古文書のときのやつなんだ。」

 

ホームズがその事件のことを触れたことは2,3度あったかと思うが、くわしい中身までは聞けてなかった。僕は思わず言った。

「その話、聞けたら嬉しいんだけど。」

 

「で、片付けはほっといて?」

ホームズはニヤっとして、

「君のそうじ熱もたいしたことないね。でもいいよ、これも記録に付けといてほしいし。かなり変わった事件だったよ。国内、いや国外でもこんなケースは無いだろうってくらいね。この変わったやつも入れとかないと僕のささやかな事件簿も完全とは呼べないだろうしね。

 

グロリア スコット号のときの話は覚えてるだろ。あの時の例の不幸な男と交わした会話が僕が今みたいな仕事をやってみようって思うきっかけになったんだけど、結局はこれが僕の一生の仕事になった。今じゃ僕の名前も知れ渡ってて、世間からも公的機関からも解決不能のミステリーの最後の駆け込み寺みたいな扱いになってるけど、君と初めて会ったとき、あの、『赤の糸』なんていって君が書き留めた事件があったあの当時だってそんな金持ちな相手はいないにしてもある程度のコネクションはあった。だから僕がいちばん最初はどれだけ苦労したかっていうのは君には想像しづらいと思う。あそこまでになるのでもかなりの時間はかかってたんだ。

僕がロンドンに来て初めて借りたのは大英博物館からの角を曲がったとこのモンテギュー通りにある部屋だった。そこで僕は依頼を待った。余りある時間をひたすらいろんな科学の知識を身に付けるのに費やしながらね。それがちょっとでも捜査の力を上げることになるから。事件の調査依頼っていうのはたまにあったんだけど、そんなのはだいたい大学の同級生からの紹介からだった。ていうのは大学の終わりの年くらいにはもう僕の名前と手法なんかは学内でもかなり噂になってたからね。そんな同級生がらみの依頼で3つ目にやって来たのがこのマズグレイブ家の古文書の事件なんだ。これのおかげで僕はいま生業としてるこの仕事にどんどんのめりこむことになったって言える。そこで起こった一連の出来事とか、懸かってるものの大きさに心を奪われていったからね。

レジナルド マズグレイブは大学の同級生で、ちょっと話すような仲ではあった。彼はちょっと高慢に見えるところがあったから学内で決して友だちの多いタイプじゃなかった。僕はあいつのあんな態度は自分の中の気の弱さを隠すためにやってるんじゃないかと思ってたけどね。マズグレイブのルックスはそのまんま貴族って感じだった。細身の体に高い鼻、大きい目っていうね。態度も落ち着いてて品があったし。実際彼はイギリスで一番古くから続く家の出だったらしい。その先祖は長男筋じゃなかったから北部のマズグレイブ家とは16世紀に分かれてて、分家となってからは西サセックスに移り住んだそうだ。そこのハールストーンの館って呼ばれる彼らが所有する屋敷は人が住む建物としてはその地でいちばん古かったって。このマズグレイブって男はそんな土地の出だっていうのがどっか体に染み付いた感じでね。あの青白くて鋭い顔とか顎の上げ方を見てたら、僕はどうしても灰色のアーチとか縦の仕切りが入った窓、みたいな封建時代の古城を思い浮かべてしまってたくらいだ。彼とちゃんとしゃべったのは1、2回だったけど、僕の観察の仕方とか推理法に彼がかなり興味を持ってたのを覚えてるよ。それから4年ほど会ってなかったんだけど、ある日の朝にモンテギュー通りの僕の部屋に彼が訪ねて来たんだ。見た目はあんまり変わってなくて上流階級の若者って雰囲気だった。まぁ昔からあいつはいい服を着てたけどね。独特の柔らかくて落ち着いた感じはそのままで、しっかりと握手をしてから僕が言った。

“今まで元気だった?”

 

マズグレイブが答えた。

“父親を亡くしたっていうのはもう耳に入ってるかも知れないけど、2年前に他界したんだ。それからはハールストーンの屋敷を任されてる。僕は地元から選ばれた議員でもあるから、今はちょっと忙しくしてるよ。でも君は大学時代に僕らをびっくりさせてたあの能力の実用的な使いみちを見つけたんだって?”

 

“うん。才覚を武器に生きていくって決めたからからね。”

 

“よかった。実は今どうしても君のアドバイスが必要でね。地元ですごくおかしなことを抱えたんだけど、警察ではどうにもならないみたいで。かなり異常でわけがわからないんだ”

 

彼のこの言葉に僕がどれだけテンションが上がったかわかるだろ、ワトソン。何ヶ月もほぼ何も起こらないまま待ち続けてたとこに、すごいチャンスが現れたんだ。僕は自分では他の人間がわからないようなことでも解明してみせれる自信はあったけど、それを試す機会がやって来たってわけだ。

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(サンプル) 「ライゲイトの名士」

この事件に出くわしたのは友人シャーロック ホームズが87年春の大仕事での疲労から体調を持ち直すまでの間だった。あのオランダ スマトラ会社やモウパトゥイ伯爵の壮大な悪巧みについては読者の記憶にも新しいと思うが、話があまりに政治的だったり金銭がらみになるので、この事件簿に入れるにはふさわしくないだろう。だがその大事件に関わったことで結果的に別の変わった事件に遭遇することになる。そこでホームズは生涯に渡る犯罪者との戦いで身に付けた数多くの戦術の中から新たな1つを披露し、その威力をいかんなく見せつけた。

ノートで確認すると4月14日とある。その日、僕のところにフランスのリオンから電報が届いていて、ホームズがデゥロンホテルというところで病気で臥せっているという連絡が入った。電報を読んでから丸1日と経たないうちに僕はデゥロンホテルの彼の部屋に到着していて、その症状が思ったよりも軽かったことにひとまず胸を撫で下ろしていた。シャーロックホームズの人並み外れた気力と体力を持ってしても2ヶ月に及ぶ捜査はさすがに堪えたというわけだ。その間に彼は1日15時間以上、何度かは5日間ぶっ通しで動いていたというのだから。エネルギーを費やした仕事自体は大成功に終わったわけだが、そのことが彼にその後に訪れるマイナスの反動を抑える効果があるわけではない。ヨーロッパじゅうが彼の名で持ちきりになり、デゥロンホテルの部屋が祝いの電報で溢れかえっている頃、当の本人はかつてないほどの鬱期を迎えていた。3カ国の警察で歯が立たなかった謎を解いてヨーロッパ最凶の詐欺師をすべての場面で出し抜けたという事実も、彼のどん底まで下がったテンションを上げる足しにはならないのだ。

僕がデゥロンホテルに着いてからその3日後にはホームズといっしょにベーカー通りの部屋まで戻って来ていた。このときの彼は完全に気分の転換が必要な状態だったし、自分にとってもうららかな春の季節に都会を出て田舎で1週間過ごすというのも引きのあるプランだったので僕は休暇の計画を立てた。アフガニスタンで軍医だったときに僕が治療をした縁で仲良くなったヘイター大佐というのがサレイのライゲイトに住んでいて、1度家まで遊びに来てほしいと何度も声をかけられていたのだ。最後にそれを言われたときには是非ルームメイトも連れて来ればいい、大いに歓迎するから、と言ってくれていた。ホームズにこの計画を話すのはかなり慎重にやらないといけなかったが、訪問先が独身世帯で、向こうで煩わしく何かに縛られるようなこともないからと念を押すと彼も食いついてきた。かくして、リヨンから戻ってきてその1週間後には、2人して僕の友人の屋敷にお邪魔していた。ヘイター大佐は兵士の長いキャリアの中でいろいろと世界を見てきた気持ちのいい人物で、思っていた通りホームズとは話が合ってすぐに2人は打ち解けていた。

向こうの屋敷に到着した晩のこと、夕食のあと僕らは屋敷内の銃器を集めた部屋にいた。ホームズはソファの上で足をのばし、大佐は彼のコレクションである東洋の武器類を僕に見せていた。このときに大佐がふと言った。

「あ、それはいいけど..  何かあるといけないから、2階にピストル1つ持っていっとくか.. 」

 

「何かあるとって?」

僕が訊いた。

 

「うん。最近ちょっと騒ぎがあってね。このへんでは大物のアクトンさんってご老人がいるんだけど、こないだの月曜にその人の家に泥棒が入ったらしいんだ。被害はほとんどなかったみたいだけど、泥棒はまだ捕まってないみたいでね。」

 

「手がかりはないんですか?」

ホームズが目だけを大佐に向けて訊いた。

 

「今のところないんですよ。まぁ田舎のちっちゃな事件ですから、ホームズさんの興味を引くようなものじゃありません。あんな国際的な事件を扱われた後でね。」

 

ホームズはやめてくださいよと言うように顔の前で手を払ったが、その顔は少し嬉しそうだった。

「事件で気になる点というのはないんですか?」

 

「ないと思いますね.. その泥棒はアクトンさんのとこの書庫室を荒らしまわっただけで、わざわざ入ったわりにはたいした物は持っていかなかったそうです。書庫室の中はぐちゃぐちゃで、引き出しは開けられてるわ、戸棚の本は荒らしまわされてるわだったみたいですけど、無くなってたのはポープの『ホメロス』とメッキのろうそく立て2つ、象牙の文鎮にオーク材の小さい気圧計、あとは糸玉。これだけだったそうですよ。」

 

「変な組み合わせだね。」

僕が言った。

 

「とりあえずそこにあったのを持って行ったってことだろうね、」

ソファの上のホームズがつぶやいた。

「警察はこの点を考えないといけないよ。どうしてそんな物を持っていったのか、もちろんそれ──」

 

僕は警告の意味で人差し指をピンと立てて、

「君は、休むためにここに来たんだからな。そんな神経がやられてるときまで新しい謎に向かわなくていいから。」

 

ホームズはしょうがないという顔を大佐に向け、おどけた感じで肩を上げてみせた。それから僕らの会話は事件や犯罪とは関係のないものに移っていった。

ただ、すでに決まっていたのだ。僕のこの医者としての忠告も無駄になってしまうことも。翌朝にはその問題が無視できない形で僕らの前にしゃしゃり出てきて、この田舎での静養は思ってもみない方向に動きはじめた。

次の日に朝食の席にいたとき、この家の執事が礼儀も何もお構いなしにドタバタと食堂に入ってきて、息を切らせながら言った。

「聞かれ.. ましたかっ! …カニングトン家でっ」

 

「泥棒かっ!」

大佐がコーヒーカップを手に持ったまま訊いた。

 

「殺人ですっ!」

 

大佐は驚いて口でヒューと音を鳴らした。 

「何てことだ..  誰が殺されたんだ? あの治安判事か、息子さんかっ?」

 

「お2人ではありません。馬車の運転手のウイリアムです。銃で心臓を撃ち抜かれて..  そのまま.. 」

 

「誰が撃ったんだ?」

 

「泥棒です。撃ってからすぐに逃げていったそうです。その泥棒が食料庫の窓から侵入していたところにウイリアムが向かっていったそうで。主人の財産を守って命を落としたと.. 」

 

「いつのことだ?」

 

「昨日の夜です。夜12時近くだったとかで。」

 

「そうか..  では、後であちらに伺ってみることにしよう。」

大佐はそれから冷静な様子で食事を続けた。そして執事が食堂を出ていってから、

「えらいことになりましたよ。カニンガム家はこの辺りでも1番の有力者ですが、あそこのご主人はまた立派な方でね。今度のことにはかなり気を揉まれるでしょうな。その撃たれたというのが長年あそこの屋敷に勤めてる使用人でね。よくできた男だったそうだけど。 .. アクトンさんのところに入ったのと同じ犯人でしょうなぁ。」

 

「あそこでおかしな物を盗んでいった..」

ホームズがつぶやいた。

 

「そうです。」

 

「うーん.. その事件ですが、蓋を開けてみればすごく単純なものということもあり得えますが、一見するとなかなかおかしな点もあるようですね。泥棒というのは、特に田舎なんかでは盗みに入る地域を変えていくもんだと思うんですが。短期間に同じ地域の2軒のお宅に盗みに入るもんでしょうか? 昨日あなたが警戒されてたのも知ってますし、そのときは僕は勝手に今ここの地域は泥棒が、窃盗集団かも知れませんが、そういった人間が狙いをつけるのに国内でも一番ありそうにない場所くらいに思ってたんですが、まだまだ勉強不足だったようですね。」

 

「まぁこの地域を専門にしている賊なのかも知れませんね。その場合はアクトン家やカニンガム家を狙うのは当然と言えます。あの2軒は桁違いに大きいですからね。」

大佐が言った。

 

「資産も桁違いだと?」

ホームズが訊いた。

 

「ま、そのはずなんですがね。実はあの2軒はここ何年か訴訟問題を抱えてましてね。どちらもかなりの額をそのことに費やしていると聞きます。アクトンさんの方は、カニンガム家の敷地の半分はもともと自分たちの土地だと主張していますし、両家とも弁護士を挟んで一歩も譲らず対立していますよ。」

 

「まぁ 今度の事件が地元のワルの仕業だったら、犯人逮捕もそう難しくはないでふぉうへど、」

ホームズがあくびをしながら言って、

「よし、ワトソン。これに絡んでく気はないよ。」

 

そのとき食堂がのドアが開き、さっきの執事が入ってきて告げた。

「警察のフォレスターさんという方が来られています。」

 

執事が引っ込んだ後で、理知的でなかなか鋭そうな顔つきの若い刑事が入ってきた。

「大佐、おはようございます。お邪魔してすいません。こちらにあのベーカー通りのホームズさんがいらっしゃるとお聞きしましたので。」

 

大佐が手で僕の友人を示すと、相手の刑事は一礼してから、

「ホームズさん、ぜひこちらの事件にお力をお貸しいただけませんか。」

 

ホームズは僕に目をやって、

「うまいくいかないもんだね、」

と言って笑い、

「今ちょうどその事を話してたとこなんですよ。よければ詳しく聞かせてもらえますか?」

と、事件の話を聞くいつもの調子でイスに深く腰かけた彼の姿を見て、もう自分が何か口を出せる段階は超えてしまったのだとわかった。

 

 

 

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(サンプル) 「ブラックピーター」

95年は僕の友人の体力と気力が最も充実していた年じゃなかったかと思う。名声が上がるにつれて依頼件数も増えていき、ベーカー通りの僕らの質素な部屋の敷居を跨いだ中にどんなすごい人たちがいたのかは、そのヒントを出すことさえ憚られるほどだ。当の本人はといえば、偉大な芸術家よろしく自らが打ち込める活動のためだけに生きていた。僕の知る限りホームズがその価値の計り知れない業務に対して多額の報酬を求めたというのは、ホゥダァネス公爵のケース以外にはほぼ無い。浮世離れしていて金に無頓着な彼は、自らの食指が動かないような事件はたとえ依頼人が権力者や金持ちであってもしょっちゅう断わったりしていた。その代わり、あまりお金を持っていそうにない依頼人の持ち込んだものでも、それが一風変わっていてドラマが隠れていそうだったり彼の想像力や知性に訴えるようなものについては自らの持つ捜査術を目いっぱい使って数週間かけてでもそれに没頭するのだった。

この95年はよくわからないような奇妙な事件に次々と出くわした思い出ぶかい年だった。ホームズの捜査能力が一段と脚光を浴びる結果となったトスカ枢機卿の急死事件、このときに捜査を彼に任せるというのはかのローマ法王本人のご意向だったというが。そんなものからあの評判の悪かったカナリア使いのウィルソンの逮捕にこぎ着けて、イーストエンドの病原発生地を1つ取り除けたなんてこともあった。そんな世間に知られた事件から時を置かずして起こったのがあのウッドマンズ リーでの悲劇、ピーター ケアリー船長の死を巡る不可解な謎の事件である。ホームズの事件簿を完成させるにはあの異様なケースのことも欠かすことはできないだろう。

 

7月の1週目、ホームズがベーカー通りの僕らの部屋を空けることが多かったので、彼が何かの事件を抱えているのはわかっていた。この間に何人か部屋にいかつそうな男たちがやって来てバジル キャプテンのことを尋ねてきたので、彼が今どこかの場所で別人格として調査を行っているのだと知った。ホームズはロンドンのいろんな場所に少なくとも5つは別の人間となって活動する場所を持っている。そういう活動については僕にはくわしく話さないし、こちらもあえて聞こうとはしない。この事件でホームズの調査がどの辺を向いているのかがわかったきっかけはかなり面白いものだった。その日、朝食の前からどこかに出かけていたホームズが僕が朝食のテーブルの席に座っているところに帰ってきた。ハットを被り、先端にとげのような返しのついた大きな槍をまるで傘でも携帯するように腋に挟んで部屋に入ってきたのだ。

 

「おいおい.. 」

僕は思わず声をあげた。

「まさかそんな格好で街中を歩いてきたってわけじゃないよな?」

 

「肉屋に行って来た。」

 

「肉屋?」

 

「うん。で、食欲満開。やっぱり朝食前の運動が体にいいっていうのは当たってるね。でも今日の僕の朝のエクササイズがどんなだったかっていうのは、君には当てられないと思う。」

 

「あきらめた。」

 

彼はククッと笑ってコーヒーをカップに注ぎ、

「ちょっと前にアラダイシィズの店の奥に来てくれてたら、天井から吊るされたブタの死体に一心不乱に槍を突き刺してる腕まくりの紳士の姿が見られたんだけどね。まぁそれが僕だったんだけど。自分の力ではどうやってもブタを一発で突き刺して固定するなんてのは無理ってわかってよかったよ。君も1回やってみたらいいかもよ。」

 

「やらないから。でもなんでそんなことを?」

 

「ウッドマンズ リーの謎に関係あるかなと思ってね。あ、ホプキンスか、電報は昨日の晩に見た。待ってたよ。こっちに来て、いっしょに食べるか?」

 

部屋に入ってきたのはすごくキビキビした感じの30歳くらいの男で、地味目のツイートのスーツに身を包んでいたが、腰をピンと伸ばして立つその様は官職にあることが体に染み付いているようだった。すぐにホームズが目をかけている捜査官、スタンリー ホプキンスとわかった。この若い刑事は刑事で、名高いアマチュア探偵の科学的な捜査手法に弟子が師匠に対するような敬意を抱いているのだ。そのホプキンスが今、浮かない顔で部屋に入ってきて、力なくイスに腰を下ろした。

 

「いえ、結構です。ここに来る前に食べてきましたので。調査の報告のために昨日帰ってきていまして、昨日は市内で泊まったんです。」

 

「で、どんな報告になったの?」

 

「収穫なしです。まったくの空振りでした。」

 

「捜査が進んでないってこと?」

 

「ええ。」

 

「何てこった..   僕が見てみないといけないな。」

 

「ええ、是非そうしてもらえればと思います。今度の事件は僕にとっては初めての大きなチャンスなんですが、どうしたらいいのか..  どうか現場に来て、お力を貸していただけませんか?」

 

「まぁ、今わかってることは新聞で読んでるし、調査報告書も見せてもらったけどね。あ、あの現場のタバコ入れだけど、どう思った?何かにつながらなかったかな?」

 

ホプキンスは意外そうな顔をして、

「あれは被害者のタバコ入れでしたよ。内側にイニシャルもありましたし。アザラシ皮製で、被害者のケアリーは元アザラシ漁師だったわけですし.. 」

 

「でもパイプは見つかってないんだろ?」

 

「ええ、ありませんでした。被害者はタバコはほとんど吸わなかったようですから。あの葉は友人が来たときのために持っていたのかも知れません。」

 

「だろうね。いや、僕がこれを言うのは自分だったらここを取っかかりにしてるだろうなと思ったからね。でもここのワトソン博士は今度の事件は何も知らないし、僕も大まかな流れをもう1回聞いても全然いいから、ちょっと大事なとこをかいつまんで話していってくれないか?」

 

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(サンプル) 「3人の学生」

95年に、詳細は省くがある出来事が重なったことで、シャーロック ホームズと僕はとある学生街で何週間か過ごすこととなった。これから語る些細ではあるが勉強になった事件に出合ったのはこのときだった。あれが起こったのがどこの大学でどの人間のことだったか読者に知れてしまうような書き方は分別に欠け、よろしくない。心がウッとなるようなスキャンダルは特定されないまま忘れ去られる方がいいのだ。とはいえ、この事件は関係者に配慮しながら書きさえすれば、僕の友人の持つ様々な素晴らしい資質の中のまた1面を映し出せるケースであると考えるので、出来事や場所、また関わった人たちが特定されないよう十分に注意しながら記述していくこととする。

僕らは当時、ある図書館近くの宿の一室で過ごしていた。ホームズは図書館に足しげく通って初期のイギリスの国家憲章について調べるなんて骨の折れる作業に没頭していたが、この研究は研究でまたすごいもので、もしかしたらその成果について書いてみることもあるかも知れない。そんなある日の夕方、僕らの共通の知人が宿にやってきた。セントルークズ大で講師をしているヒルトン ソームズという、背の高い細身の人物で、感情の動かされやすい少し落ち着きのないタイプの人だった。普段からそういう性格だとはわかっていたが、そのときの彼は落ち着きのなさを通り越して心の揺れを抑え切れないような感じで、彼のまわりで何か普通でないことが起こったのは明らかだった。

 

「ホームズさん。あなたの貴重なお時間を、こちらのために割いていただけると信じています。セントルークズのほうで頭の痛い問題が起こりましてね。あなたのような方がたまたまこの街に来ていなかったら、どうしていいかわからなくなるところでしたよ。」

 

「今はちょっと、だいぶ忙しくしてましてね。他のことに取られてる場合じゃないんですよ。警察のほうに頼んでもらえると僕としてもありがたいんですが。」

ホームズはこう返した。

 

「ダメです、ダメです。それは断じてできません。警察を呼んでしまったら途中で止めることもできなくなりますし。今回のことは大学の名誉に関わることでして、スキャンダルだけは絶対に避けたいんです。ホームズさんは捜査力もさることながら、そういう配慮に関しても超一流と聞いてます。だからこの問題はあなたでないとダメなんです。なんとかお願いします、力を貸してください。」

 

このときの僕の友人の機嫌はあのベーカー通りの部屋から離れている時点で基本的に良いとは言えなかった。ここの宿の部屋ではあの部屋のスクラップブックや薬品類、そしてなんといっても雑多な散らかり具合が再現できていない。そんなわけでここでは本来の姿よりもいささかピリついた感じがあるのだが、その彼がいま嫌そうながらも仕方ないという感じで肩を上にあげてみせた。相手はすかさず持ってきた話をまくし立てた。

「ホームズさん、まず知ってほしいんですが、明日はうちの大学のフォーティスキュー奨学金試験の初日なんです。私はそのうちのギリシャ語の試験を担当してるんですが、その試験問題の始めに講義では扱ったことのないギリシャ語の文を翻訳していくという大問を設定してあるんです。問題用紙に長文が印刷されるんですが、もしこの長文の内容を受験者が前もって知っていたら、当然のことながら試験ではかなり有利となります。だから長文の印刷された問題用紙の扱いにはかなり気を使うんです。

今日の3時頃なんですが、この問題用紙のゲラ刷りが業者から私のところに届いたんです。その大問というのはユーシディティーズの書いたある章の約半分を翻訳していくというものなんですが、そこに誤字などがあってはいけませんので、ゲラ刷りを受け取ったあと私は学内にある自分の部屋でそれを念入りにチェックしていってたんです。それで4時半になってもまだ作業は終わってなかったんですが、その時間に友人のところでお茶を飲む約束をしてまして。それでそのゲラ刷りをテーブルの上に置いたままで部屋を出て、それから30分以上は空けていたんです。

ご存知と思いますが、うちの大学の扉は2重になっています。内側に緑のベイスの張ってある戸があって、外は樫製の重厚な錠付きのドアです。それで私がお茶から戻ってきたときに、そのドアの鍵穴に鍵が挿されたままになってあるのを見てびっくりしました。自分が出るときに抜き忘れてしまったのかと一瞬思いましたが、ポケットを触ると自分の鍵はちゃんとありました。ここの部屋のスペアキーの存在は1つしか私は知りませんので、つまりそれは私の下で働く掃除係のバニスターの物ということになるんです。彼は私の部屋の管理をもう10年はやってくれてる誠実で生まじめな男です。実際その鍵はバニスターのものでして、彼は私が出かけてる間にお茶がいるかどうか訪ねようと私の部屋に入ったそうで、それで出て行くときにうっかり鍵を抜き忘れてしまったと。これが他の日ならたいした問題にもならなかったんですが、よりによって今日だったというのが残念な結果を生むことになってしまいまして。

とりあえず私は部屋に入って室内を見まわしたんですが、すぐにここに侵入者がいたことはわかりました。中央の書き物テーブルの上にあったゲラが誰かにいじられていたんです。そのゲラ刷りというのは長いめの用紙が3枚あるものなんですが、そのうちの1枚は床の上にあるし、1枚は窓際のサイドテーブルの上、残りの1枚はそのままテーブルにあったんです。」

 

黙って聞いていたホームズがここで反応し、

「1ページ目が床、2ページ目が窓際、3ページ目がそのまま.. 」

 

「そうです。驚きました。何でわかったんです?」

 

「どうぞ、その興味ぶかい話を続けてもらえますか。」

 

「.. 私はそれを見て、もしかしたらバニスターが、これは許されないことですが無断でゲラに触れたのかなと考えたりしたんですが、彼に訊いてみたらそんな事はやっていないと真剣な顔で言っていましたし、それに嘘はないと私は思います。となると残りの可能性は、部屋の前を通りかかった誰かが鍵が挿さされたままのドアを見つけ、中に私がいないと考えて試験の問題用紙を盗み見るために入ってきた、ということになります。このフォーティスキュー奨学金というのはかなり手厚いものですから、そのけしからん人間が他の受験者を出し抜こうとしてそんなリスクを冒すというのも考えられなくはないんです。

バニスターはこの状況にかなりうろたえてまして、ゲラ刷りが誰かにいじられたとわかった時には気を失わんばかりなって、フラフラっとよろめいていって部屋のイスに座り込んでしまいました。私はとりあえず彼をそのまま座らせておいてブランデーを少し与えてから、自分では室内をじっくり見てみたんです。するとゲラ刷りの位置が変わってた以外にも、ここに入った者がいたという形跡はいくつか見つかりました。窓際のサイドテーブルの上なんですが、ここに鉛筆の削りカスと折れた芯があったんです。つまり侵入者はそのサイドテーブルでゲラ刷りを急いで別の紙に写していき、そのときに鉛筆の芯が折れてしまい、そのテーブルの上で削ったということだと思います。」

 

「すばらしい、」

この興味ぶかい話に聞き入るうち、だんだん本来の機嫌に戻ってきていたホームズが口を開いた。

「まだ運がありましたよ。」