シャーロックホームズの冒険

MPE事業部 名義で発行の 「《カジュアル》 シャーロックホームズ 」 の作品サンプルを載せているページです。

(サンプル) 「ノーウッドの工務店主」

「犯罪捜査に携わる者として言わせてもらえば、」

シャーロック ホームズが口を開いた。

「あのモリアーティ教授が死んで、ロンドンもだいぶ退屈な街になっちゃったね。」

 

「ま、同意する人間もいないだろうけどね。」

僕が返した。

 

「そうだよね。そんなこと言ったらわがままか、」

ホームズはそう言って笑い、朝食の前のイスを引いて、

「世の中的にはそっちの方がいいんだし、誰も損してないもんね。依頼が減って職を失う犯罪の専門家がいるってだけで。それにしてもあの男がいるときは新聞の記事だっていろんな読み方ができてたよ。いつもほんのちょっと見え隠れするだけだったんだけどあの邪悪な知能が関わってる事件がどれかはわかった。ほんとにちょっとしたサインだけどね。糸がちょっと揺れたらその巣の真ん中にはちゃんとヤバいクモがいるんだなって改めて思うみたいな感じで。ちゃちな窃盗とか行き当たりばったりの暴行、無意味な暴動とかの中に見る人が見たら、裏ですべての糸を引いてる存在が透けてた。高度な犯罪を研究する人間にとってはロンドンって街はヨーロッパのどこよりも貴重な研究材料を提供してたんだけどね、それも.. 今となってはね。」

ホームズは肩をすくめ、自らがその状況を作るのに大いに貢献したモリアーティ教授がいないという現状をおどけて嘆いてみせた。

 

このときはホームズが帰ってきてから数ヶ月経っていた頃で、ホームズの薦めで僕は診療所を人に売ってしまい、またベーカー通りのこの部屋で彼との同居生活を再開させていた。ケンシングトンにある僕の診療所を購入したのはバーナーという若い医者だったが、彼は僕が出してみた自分の中で売れればいい最高額にも少しの躊躇も見せずにポンと支払ってくれた。何年かしてわかったのは、このバーナーというのはホームズの遠い親類筋にあたる男で実質その予算を出していたのはホームズということだった。

 

僕らのこの数ヶ月の同居期間中にはホームズが今ぼやいたほど何もコトが起こらなかったわけではない。ムリージョ元大統領の書類のこともあったし、あのオランダの蒸気船フリースランド号のびっくりするような事件のときには僕ら2人とも命を落としててもおかしくなかったくらいだ。プライドの高く冷めたところのあるホームズは事件のことで世間からの喝采を受けることを受け付けず、彼の名前や捜査手法、解決した事件についてはいま以上の公表はしないよう最近まで止められていたのだ。

 

さっきの愚痴をこぼしたあと、ホームズは何の気なしに新聞を手にしたままイスの背にもたれて座っていた。そうしていたところに表玄関のベルが大きく響き、僕らの注意はそっちに向いた。誰かが玄関のドアをドンッドンッとグーで叩いてるような音がして、ドアが開けられてからは大急ぎで廊下を渡って階段を駆け上がってくる音が続き、部屋のドアがバッと開いてそこに必死の形相の若者が立っていた。服は乱れ、青白い顔でハァハァと肩で息をしている。僕たち2人の“え?”という顔を見まわして、礼を欠いた登場の仕方を詫びないといけないと思ったらしく、

「失礼しました、ホームズさん。でも仕方なかったんです。もう僕はちょっとおかしくなってしまいそうでして..   僕があの哀れなジョン へクター マクファーレンなんですっ。」

 

青年はそれだけを言えば自分が来た理由も今の取り乱し具合もこちらが理解してくれるだろうといった感じで自分の名を告げたが、ホームズを横目で見てもその表情には何の変化のなかったし、僕にとってもその名前は何の意味も持ってなかった。

 

ホームズがタバコ入れを青年の前に差し出し、

「マクファーレンさん、タバコをどうぞ。ちょっと興奮しておられるようだから、鎮静剤がご入り用ならここのワトソン先生がすぐ処方してくれると思いますよ。このところ暑かったですからね。あぁ、ちょっと落ち着かれたら、そこのイスに座ってもらって、もうちょっとゆっくりとあなたがどこの誰で、どんな用件でここに来られたのか教えてもらえますか?あなたのことをこちらが知ってるかのように自己紹介されましたけど、僕はあなたのことを何も知らない。独身の司法書士で、喘息持ちでフリーメイソン会員ってこと以外はね。」

 

ホームズのこの芸当はもう何度も目の当たりにしていたのでその推論の流れをたどるのもそれほど難しくなかった。この青年の服装のだらしなさや法的書類の束、その息づかいや時計にある飾りなどを見れば、だ。ただやはり相手の青年の方はかなり驚いたようで、

「あ.. はい。ぜんぶその通りです、ホームズさん。それに加えて僕は今ロンドンで1番不幸な男なんです。お願いです、助けてくださいっ!もし僕が話を終える前にやつらが来たら、僕に時間をくれるように言ってほしいんです。連れて行かれる前に本当のことをあなたに話してから行けるように。逮捕されてもあなたが僕のために動いてくれてると思えるんなら、全然違う気持ちで行けますから。」

 

「逮捕される?」

ホームズが口にした。

「それはおも..  ただごとじゃないようですね。何の容疑で逮捕されると?」

 

「下ノーウッドの、ジョナス オゥデイカーさん殺害容疑ですよ。」

 

ホームズは同情の顔を浮かべてみせたが、その中に嬉しそうなものが混じっているのを僕は見逃さなかった。

「わからないもんですね。ほんのさっき朝ごはんの時に、ここのワトソン君と新聞読んでてもセンセーショナルな事件って無くなったね、なんて言ってたとこですよ。」

 

マクファーレン青年はホームズの膝に置かれたデイリーテレグラフに手を伸ばし、震える手でそれをつかみ取って、

「これを見てもらったら、僕がここに来たわけがわかってもらえると思います。僕の名前と境遇なんてもうロンドンじゅうに知られてると思ってました。」

青年は新聞をめくっていって中のページを表に持ってきてから、

「ここです。見出しを読んでいいですか。ホームズさん、いいですか。“下ノーウッドで謎の事件 有名工務店 店主が行方不明 殺人と放火の疑い 現場に証拠品” この証拠品については警察がもう調べてるんです。で、それは確実に僕のところに結びつくんですっ。ロンドン橋駅からずっと尾行されてて..  たぶん警察は今は逮捕状が下りるのを待ってるだけだと思うんです。逮捕されたりなんかしたら母さんがどんなに悲しむか.. どんなにっ!」

青年はいてもたってもいられないといった様子で両手のひらを重ねてグッと握り、座ったまま体を前後に揺すった。

 

僕はこの凶悪事件の容疑がかけられた青年を眺めてみた。髪は薄茶色、怯えるその目の瞳は青色で、悲壮感は漂うものの元々の顔立ちは端正だ。あごや頬にヒゲはなく唇は力無くわなわなと震えている。年は27才くらいか。着ている服やその物腰から見て中流階級以上のようだ。夏用の薄いコートのポケットからさっき彼の職業が知れることになった署名入りの書類の束がはみ出している。

 

ホームズが口を開いた。

「じゃ、今ある時間を有効に使わないとね。ワトソン、悪いけどその記事読んでみてくれない?」

 

依頼人の青年が口にした迫力の見出しの後には以下の興味ぶかい記事が続いていた。

 

「昨夜遅くもしくは今日未明、下ノーウッドで重大事件発生の可能性。ジョナス・オゥデイカー氏はこの地で長らく工務店を営なむこの界隈では名の知れた人物で、シデナム道の端、シデナム側に位置するディープディーンハウスに居を構える52才の独身男性である。氏は地元ではその一風変わった人柄で知られており、人づき合いは少なく私生活を明かないタイプの性格だったようだ。工務店業でかなりの資産を築いたとされるが、ここ数年はその事業からは実質的に引退状態だったようである。ただし氏の自宅裏には小規模な資材置き場がまだ残っており、昨夜12時頃この場所が燃えているとの通報があった。消防がすぐに駆けつけたが、木が乾燥していたこともあって火の勢いを収めることはできず、結局この置き場にあった材木は全焼してしまったとのこと。ここまでであれば通常の火災事件ということだが、重大な犯罪が行われたことを示唆する事実がこの後に発覚している。現場となった自宅兼事務所に住む店主の姿が火災後から見つかっていないことに驚きの声が上がっている。氏の自宅の寝室の捜索したところ、昨夜ここのベッドが使用された形跡はなく、部屋に取り付けの金庫の扉は開いており、中に保管されていた思われる書類が部屋に散乱していたとのこと。さらにこの寝室からは流血を伴う格闘の痕跡も発見されている。部屋にわずかに血痕があったのに加え、屋敷に残されていた樫製のステッキの柄の部分にも血痕が付着していた。家の主人であるジョナス・オゥデイカー氏は昨夜遅くこの屋敷に客を迎えていたことがわかっており、血痕の付着したステッキはこの客の持ち物とされる。持ち主の名はジョン・ヘクター・マクファーレンというロンドン東中央のグラシャムビル426、グラハムアンドマクファーレン事務所に勤務する若い司法書士である。警察はすでにこの人物のオゥデイカー氏殺害の動機に関する重要な証拠を掴んでいるとされ、捜査は今後 急展開を迎える可能性がある。

原稿出稿前の最新情報によれば、未確認ではあるもののジョン・ヘクター・マクファーレンなる人物はすでに殺人容疑で逮捕されているか、少なくとも同容疑での逮捕状は発行されているとのこと。また事件に関して恐るべき新事実も判明している。哀れな工務店 店主の寝室には前述した格闘の痕跡以外に、窓が開いたままとなっており(オゥデイカー氏の寝室は1階にある)、家の庭には大きな物体が引きずられたような跡が残っていて、これが火災のあった資材置き場まで続いていたとのことである。さらに火災跡からは黒こげの遺骸なども見つかっており、警察はこの家で重大な犯罪が行われた可能性が高いと見ている。犯人は寝室において被害者を撲殺したあと、金庫を荒らして自身に関連した書類を抜き取り、死体を裏の資材置き場まで運んでそこに火を放ち、証拠の隠滅を図ったと見られる。本件の捜査には警視庁の熟練の捜査員であるリストレード警部が当たっており、その深い洞察と熱意を持って目下証拠の調べを徹底的に行っているとのことである。」

 

ホームズは瞼を閉じ、両手の指先を合わせた格好でこの奇妙な事件の詳細に耳を傾けていた。

「確かにその事件には興味ぶかいところがありますね.. 」

と独特のゆったりした感じで言ってから、

「マクファーレンさん、1つ訊いていいですか?その記事からするとあなたに逮捕状が出ているのは間違いないと思われるんですが、なぜあなたはまだここに来れてるんです?」

 

「僕はブラックヒースのトリントン荘で両親と暮らしてるんですが、昨日はオゥデイカーさんと仕事の話があってノーウッドまで行っていたんです。それで夜はその近くの宿で泊まりました。今日の朝は宿から直接 市内に向かったんですが、列車に乗るまでは事件については何も知りませんでした。列車の中で新聞を広げて、今あなた方に読んでもらった記事を見て初めて自分の立場がどれだけ危うくなってるかを知ったんです。それからはあなたに全てをお任せしようと思い急いでここに来たんです。自宅とか仕事場に寄ってたら確実に捕まってたと思います。ロンドン橋駅から尾行されてたみたいで、あれは絶対に..  え..  あ..  何だ?」

 

玄関のベルが鳴り、すぐにドスドスという階段を上がる音が聞こえてきた。部屋のドアが開き、僕らの友人であるリストレード刑事が姿を現した。後ろの廊下には1人、2人制服警官の姿も見える。

 

「ジョン ヘクター マクファーレンさんだね?」

リストレードが声をかけた。

 

僕らの哀れな依頼人は顔面蒼白となってイスから立った。

 

「下ノーウッドのジョナス オゥデイカー氏殺害容疑で逮捕する。」

 

マクファーレンは悲壮な顔で僕らを見てから、何かに押さえつけられるようにガクンと腰を落とした。

 

「ちょっとだけ、リストレード、待ってもらいたいんだ、」

ホームズが声をかけた。

「30分かそのくらいくれたら。それぐらいだったら君のほうにそんなに支障もないだろ?この人は今すごく重要なことを僕らに話そうとしてるみたいなんだ。事件の状況を明らかにするのにすごく大事なことなんだって。」

 

「事件の状況を明らかにするのは別に難しくないけどね。」

リストレードが険しい顔で返した。

 

「それでも、だ。君が許可してくれたら、ねっ? 僕はこの人の話を聞いてみたい。」

 

「.. 君にそう言われたら断るのは難しいけどね。これまでも捜査に力を貸してくれたわけだし、警視庁としての借りがあるからね。けど、この容疑者は連れて行かせてもらうよ。それとマクファーレンさん、今からしゃべることは法廷で不利な証拠として使われることもあるということは伝えておく。」

 

「それで十分です、」

マクファーレンが答えた。

「何があったのかを知っておいてもらいたいんです。」

 

リストレード刑事が時計を手に持って、

「30分だ。」

 

マクファーレン青年が話を始めた。

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