シャーロックホームズの冒険

MPE事業部 名義で発行の 「《カジュアル》 シャーロックホームズ 」 の作品サンプルを載せているページです。

(サンプル) 「3人の学生」

95年に、詳細は省くがある出来事が重なったことで、シャーロック ホームズと僕はとある学生街で何週間か過ごすこととなった。これから語る些細ではあるが勉強になった事件に出合ったのはこのときだった。あれが起こったのがどこの大学でどの人間のことだったか読者に知れてしまうような書き方は分別に欠け、よろしくない。心がウッとなるようなスキャンダルは特定されないまま忘れ去られる方がいいのだ。とはいえ、この事件は関係者に配慮しながら書きさえすれば、僕の友人の持つ様々な素晴らしい資質の中のまた1面を映し出せるケースであると考えるので、出来事や場所、また関わった人たちが特定されないよう十分に注意しながら記述していくこととする。

僕らは当時、ある図書館近くの宿の一室で過ごしていた。ホームズは図書館に足しげく通って初期のイギリスの国家憲章について調べるなんて骨の折れる作業に没頭していたが、この研究は研究でまたすごいもので、もしかしたらその成果について書いてみることもあるかも知れない。そんなある日の夕方、僕らの共通の知人が宿にやってきた。セントルークズ大で講師をしているヒルトン ソームズという、背の高い細身の人物で、感情の動かされやすい少し落ち着きのないタイプの人だった。普段からそういう性格だとはわかっていたが、そのときの彼は落ち着きのなさを通り越して心の揺れを抑え切れないような感じで、彼のまわりで何か普通でないことが起こったのは明らかだった。

 

「ホームズさん。あなたの貴重なお時間を、こちらのために割いていただけると信じています。セントルークズのほうで頭の痛い問題が起こりましてね。あなたのような方がたまたまこの街に来ていなかったら、どうしていいかわからなくなるところでしたよ。」

 

「今はちょっと、だいぶ忙しくしてましてね。他のことに取られてる場合じゃないんですよ。警察のほうに頼んでもらえると僕としてもありがたいんですが。」

ホームズはこう返した。

 

「ダメです、ダメです。それは断じてできません。警察を呼んでしまったら途中で止めることもできなくなりますし。今回のことは大学の名誉に関わることでして、スキャンダルだけは絶対に避けたいんです。ホームズさんは捜査力もさることながら、そういう配慮に関しても超一流と聞いてます。だからこの問題はあなたでないとダメなんです。なんとかお願いします、力を貸してください。」

 

このときの僕の友人の機嫌はあのベーカー通りの部屋から離れている時点で基本的に良いとは言えなかった。ここの宿の部屋ではあの部屋のスクラップブックや薬品類、そしてなんといっても雑多な散らかり具合が再現できていない。そんなわけでここでは本来の姿よりもいささかピリついた感じがあるのだが、その彼がいま嫌そうながらも仕方ないという感じで肩を上にあげてみせた。相手はすかさず持ってきた話をまくし立てた。

「ホームズさん、まず知ってほしいんですが、明日はうちの大学のフォーティスキュー奨学金試験の初日なんです。私はそのうちのギリシャ語の試験を担当してるんですが、その試験問題の始めに講義では扱ったことのないギリシャ語の文を翻訳していくという大問を設定してあるんです。問題用紙に長文が印刷されるんですが、もしこの長文の内容を受験者が前もって知っていたら、当然のことながら試験ではかなり有利となります。だから長文の印刷された問題用紙の扱いにはかなり気を使うんです。

今日の3時頃なんですが、この問題用紙のゲラ刷りが業者から私のところに届いたんです。その大問というのはユーシディティーズの書いたある章の約半分を翻訳していくというものなんですが、そこに誤字などがあってはいけませんので、ゲラ刷りを受け取ったあと私は学内にある自分の部屋でそれを念入りにチェックしていってたんです。それで4時半になってもまだ作業は終わってなかったんですが、その時間に友人のところでお茶を飲む約束をしてまして。それでそのゲラ刷りをテーブルの上に置いたままで部屋を出て、それから30分以上は空けていたんです。

ご存知と思いますが、うちの大学の扉は2重になっています。内側に緑のベイスの張ってある戸があって、外は樫製の重厚な錠付きのドアです。それで私がお茶から戻ってきたときに、そのドアの鍵穴に鍵が挿されたままになってあるのを見てびっくりしました。自分が出るときに抜き忘れてしまったのかと一瞬思いましたが、ポケットを触ると自分の鍵はちゃんとありました。ここの部屋のスペアキーの存在は1つしか私は知りませんので、つまりそれは私の下で働く掃除係のバニスターの物ということになるんです。彼は私の部屋の管理をもう10年はやってくれてる誠実で生まじめな男です。実際その鍵はバニスターのものでして、彼は私が出かけてる間にお茶がいるかどうか訪ねようと私の部屋に入ったそうで、それで出て行くときにうっかり鍵を抜き忘れてしまったと。これが他の日ならたいした問題にもならなかったんですが、よりによって今日だったというのが残念な結果を生むことになってしまいまして。

とりあえず私は部屋に入って室内を見まわしたんですが、すぐにここに侵入者がいたことはわかりました。中央の書き物テーブルの上にあったゲラが誰かにいじられていたんです。そのゲラ刷りというのは長いめの用紙が3枚あるものなんですが、そのうちの1枚は床の上にあるし、1枚は窓際のサイドテーブルの上、残りの1枚はそのままテーブルにあったんです。」

 

黙って聞いていたホームズがここで反応し、

「1ページ目が床、2ページ目が窓際、3ページ目がそのまま.. 」

 

「そうです。驚きました。何でわかったんです?」

 

「どうぞ、その興味ぶかい話を続けてもらえますか。」

 

「.. 私はそれを見て、もしかしたらバニスターが、これは許されないことですが無断でゲラに触れたのかなと考えたりしたんですが、彼に訊いてみたらそんな事はやっていないと真剣な顔で言っていましたし、それに嘘はないと私は思います。となると残りの可能性は、部屋の前を通りかかった誰かが鍵が挿さされたままのドアを見つけ、中に私がいないと考えて試験の問題用紙を盗み見るために入ってきた、ということになります。このフォーティスキュー奨学金というのはかなり手厚いものですから、そのけしからん人間が他の受験者を出し抜こうとしてそんなリスクを冒すというのも考えられなくはないんです。

バニスターはこの状況にかなりうろたえてまして、ゲラ刷りが誰かにいじられたとわかった時には気を失わんばかりなって、フラフラっとよろめいていって部屋のイスに座り込んでしまいました。私はとりあえず彼をそのまま座らせておいてブランデーを少し与えてから、自分では室内をじっくり見てみたんです。するとゲラ刷りの位置が変わってた以外にも、ここに入った者がいたという形跡はいくつか見つかりました。窓際のサイドテーブルの上なんですが、ここに鉛筆の削りカスと折れた芯があったんです。つまり侵入者はそのサイドテーブルでゲラ刷りを急いで別の紙に写していき、そのときに鉛筆の芯が折れてしまい、そのテーブルの上で削ったということだと思います。」

 

「すばらしい、」

この興味ぶかい話に聞き入るうち、だんだん本来の機嫌に戻ってきていたホームズが口を開いた。

「まだ運がありましたよ。」